緑の巨人のドライブスルー

 「聖地さんぽ」二回目は、諏訪の杜の六角堂。他県ナンバーや運転に自信のない人にはおすすめできない神さまの道「六角堂(六角道とも)」である。

 「おすわさん」として親しまれている諏訪神社は「諏訪の杜(もり)」と呼ばれる森に包まれている。そもそもは森というより、玉園山というひとつの丘全体であり、それはさらに背後の金比羅山へとつながっていくのだが、ひとまず「おすわさん」は「諏訪の杜」に包まれている(おすわさんの参道脇には、その名も「諏訪の杜たけやま」という酒屋さんがあり、おいしい日本酒やワインが揃っている)。

 神さまの森である「諏訪の杜」には、450年前に長崎が開港するもっと前には神宮寺があって、金比羅山一帯も合わせると、何十もの宿坊があったとかなかったとかいうが、開港以前の長崎の歴史は、キリシタン時代に失われた史料が多々あるらしく、ほぼ謎に包まれているので、伝説の域を出ない。江戸時代に入ってからの禁教によって、教会をはじめとする膨大なものが失われたが、キリシタン時代がはじまるころにもまた、それまであった寺社を壊すなど、土地の記憶の抹消につながることが行われた。以前、子どもの学校の集まりで、私が長崎の歴史のことを書いたりしているという話になったとき、「弾圧されたとか言うけど、キリシタンだってひどいことをしたでしょう?それなのに世界遺産とかおかしい」みたいなことをぐいぐい話しかける人がいた。さらにそのあと「『隣の変な国』みたいに歴史を変えちゃいけない」と展開しはじめたので、そっと目を伏せてコーヒーを飲んだ。そうとも言えるけど、それだけでもない。なにがあったかはきちんと見つめなくてはならないけれど、どっちがひどかった合戦をしても、なにも生まれない。自分が思うところで歴史を切り取れば、いくらでもいろんなことが言える。

 そんなぐだぐだの歴史を見つめながら、諏訪の杜は「諏訪」の名前がつくずいぶん昔から、神聖な森でありつづけてきた。いま諏訪神社があるあたりは、たぶんずっと人が住むことはなく…というか、人が住むにはあまりに「強い」土地なのかもしれない。開港以前の長崎の村からも、開港後の長崎の町からも近いのに、生活の場として使われることはなかった。とはいえ、町に暮らす人がどんどん増え、目に見えない存在への意識が変わってくると、神さまの森とはいえ、使っても大丈夫そうなところから「活用」されるようになってくる。その極めつけが「六角堂」の道だ。(写真の上の方のぐねぐね道。体感としてははこんな生易しいものではない。)

 長崎の中心部でタクシーに乗って「六角堂からお願いします」と言えば通じるこの道は、かつて神域であったはずの森をぐいぐい登っていく、まさに神仏をも畏れぬ道だ。登った先に中学校や高校を作るときに整備したようだが、いまだにあくまで公園の一部であり、国道や県道ではない。道は通すが、御神木はできるだけ残すということなのだろう、タイトなカーブの道の真ん中に、どーんと鎮座まします大木が何本も続いている。生活圏の広がりと神域がせめぎあう、奇跡の緩衝地帯だ。毎日たくさんの車が通って、だれもそんなことは意識していないと思うが、位置関係としては、諏訪神社の拝殿と本殿の奥にあり、世が世なら完全に「禁足地」である。実際、道のフェンスの向こうがわは、普通の参拝では入ることはできないエリアだ(写真の向かって右側)。


 諏訪の杜は、長崎の移り変わりをずっと見てきた。お寺や教会や神社が置かれてきたし、学校や図書館や美術館や博物館が建てられてきた。それはまるで、長崎の記憶庫だ。あるいは日銀の支店があったり、清浄を旨とするはずの神社のそばに動物園があったりもする。昔はクマだっていた。そういえば日銀の前には食肉工場があって、大きな肉のかたまりがいくつもぶら下がっていたことを覚えている。なんと懐の深い森だろう。版画家の田川憲さんは、この森のクスノキたちを屈託のない巨人に見立て、一斉に芽吹く様子を「筆舌につくしがたい『緑の響宴』の大壮観」と記した。緑の巨人たちが、うわーっと腕を広げ、天に向かって喜んでいる。そればかりはいくら写真にとっても動画にしても、ほんとうには伝わらないと思う。


 道の真ん中で腕を広げている大きな大きなクスノキの巨人たちは、本来「めっちゃ偉いご神木」なのだ。木の幹には黄色と黒の反射材が巻かれているけれど、これが注連縄だと思えばいい。この道を通り抜けるのは、本当に気持ちがいい。バイクで通るときなど、みるみる浄化されていくような気分だ。つまりここは畏れ多くも、車で通り抜けながら力を戴くことができる「ドライブスルー聖地」と言えるのかもしれない。

 馬が通ることも、ある。