とーどさんのドラゴン

 以前、地元のテレビ局で「聖地さんぽ」なるコーナーをやっていた。長崎の「パワースポット」やら、歴史的に重要な場所を巡ろうという企画だったが、まぁ、グルメやお出かけ情報と並べるにはマニアックすぎたのかスポンサーの付けようがないからか、1年くらいで終わった。そのあとは、歴史的な「人」をたずねて「ひとこと」を探す「ヒトコトさんぽ」が始まったが、これまた1年くらいで終わった。

 教訓。さんぽは一年で終わりがち。

 それはさておき、どちらも自分で構成を考えていたので、いくつかの長崎の歩き方として書いておこうと思う。


 第一回目に訪れたのは、龍頭岩。りゅうずがん、りゅうとうがん、読み方はどちらもある。のっけから龍の頭の岩である。ドラゴンヘッドロック(でOK?)、古今東西、これ以上のパワースポット的な名称があろうか。でも、現状としては、わざわざ訪れる人もいない、そのへんの丘の薮に覆われたデカい岩だ。

 場所は、カズオ・イシグロが生まれ育った中川のおとなりの桜馬場のもうちょっと奥のほう。450年前、ポルトガル船に向けて開かれた長崎の港と町がある「長い岬」の深い付け根だ。華々しい国際貿易港「長崎」ができる前のこの土地にだれも住んでいなかったのかと言うとそんなことはなくて、その「付け根」あたりに、細々とした暮らしがあった。伝説レベルでさかのぼれば、平家にもつながるそうだが、とにかく小さな山城と村があり、その城が建っていたのが「龍頭岩」のところである。なので、長崎の人はここを「しろのこし」と呼ぶ。もっと訛れば「しろんこし」。古い城跡の「城の古址」が一般的だが、城を越えていく「城の越し」だという説もある。ここがひとつの丘でありつつ、北へ向かっていくつものピークが重なり、そのまた背後に広がる山々につながっているので、どんどん「越えて」いくのだという理屈もわかる。

(写真は西山側から)

 うねうねと連なる丘は、大蛇か龍のようだ。そのいちばん先端の丘に大きな岩の塊があれば、それを「頭」だと思う気持ちは、ごく自然にわき起こったことだろう。とても古い時代の祭祀の痕跡もあるというし、観音堂やらお不動さんやら、その他、新旧大小の祠やら仏像やらがあちこちにある。背後の大きな山々から生まれた龍の頭は、神聖な場所であるとともに、城を建てるにもよいポジションだ。まっさらな長崎の地を眺め渡した人たちが、ここに居を構えたのもまた、自然な流れだったろう。

 日本初のキリシタン大名の家臣である領主の長崎甚左衛門が受洗し、あたらしい長崎が開港するころ、ここにあった廃寺が長崎初の教会となった。トードス・オス・サントス教会、諸聖人に捧げられた教会だ。領主から提供された地ではあったが、長崎におけるキリスト教は、まず、長崎随一の「聖地」を押さえていたわけである。その後、長崎の町は貿易とキリシタンの町として発展し、数多くの教会が建った。禁教令がそれらの教会を破壊しつくしたあとも、トードス・オス・サントス教会はしばらく残った。いよいよ壊された跡には、ふたたび寺が建てられた。

 龍の頭の岩は、依然として霊気漂う「聖地」として知られていた。これを我がものにしようとしたのが、元キリシタンの代官・末次平蔵の家だ。長崎のだれもが知る霊岩を〜、墓に仕立てようというのだからぁ、お立ち会い、ベンベン。石を切り出す職人の、だれに頼んでもやりたがらない、ようやくつかまえ、さぁ岩に刃を当てて、ガツーン!と一撃をくらわしたその時、まっ赤な鮮血がほーとーばーしーるーーー。というわけで、作業は中断し、人々はそのうち下るであろう末次家への天罰を噂した。当時、代官業のほかに朱印船貿易で大いに儲けて財を築き、大名にも貸し付けるほどの栄華を誇っていたが、やがて密貿易による罰で、ほぼ取り潰し状態となって姿を消した。たしかにかなり奢っていたところはあったが、貿易家が密貿易の罪に問われたのは、鎖国で罪の基準が変わっただけであるし、長崎の直接支配を強めたい幕府の意向でもあった。末次家は開港まもなく博多からやってきた商家で(初代平蔵の父・興善の名が『興善町』として残っている)、キリシタンであったけれど棄教して生き延び、貿易で栄え、良くも悪くもそれまでの長崎を体現してきた。龍頭岩を使うことはできなかったものの、末次家のお墓はいまもすぐ近くにある。

 龍頭岩には「このあたりに現れる素敵なお兄さんに、若い娘さんが惚れておかしくなったと思ったら、彼女の指のあいだからヘビのうろこが……」という「蛇婿譚」タイプのお話「タンタンタケジョ」も伝わるが、それよりも奇なりは、いつしか付いた丘の名前である。すぐ近くに唐通事の家の大きな墓や別荘が作られたからか、岩のある丘は「唐渡山」と呼ばれるようになった。字面だけ見れば、仏教にまつわるものや中国との貿易にちなんだのかとも思える。しかし口に出せば「とーどさん」。かつてここにあった教会の名前と、あまりに響きあう。だれがどんなつもりで言い出したのかはわからないし、ひょっとしたら本当に「唐」に「渡」るという意味で呼び始められたのかもしれないけれど、それならもっと、土地の記憶の力を感じずにはいられない。

 そんなことは知らないままに、私が子どものころは、ちょっとしたピクニックや、保育園の遠足の場所だった。小さい子には岩が滑り台やらジャンプ台になったし、港までも見晴らせた。いまは木や草が生い茂って、訪れる人もそういない。眠る龍にとって、それは寂しいことだろうか、そんなこと思いもしていないだろうか。


(写真は、1976年。ツノみたいな出っ張りが、ますます龍っぽい)