アブーさんとおるごおる

 長崎で親しまれているお菓子に、老舗洋菓子店「梅月堂」の「南蛮おるごおる」がある。「梅月堂」といえばパイナップルと黄桃が乗ったレトロケーキ「シースクリーム」が知られているが、長崎での知名度は「南蛮おるごおる」も負けていない。お菓子の種類としてはよくある「シガレット」なのだけど、材料の配合のポイントが、リッチな味わいときれいな形を両立させるギリギリのところにあるそうだ。サクサクのホロホロ、「シガレット」の存在も知らない子どものころ、映画で見た葉巻をくわえるみたいにしてふざけて食べたのは、あんがい間違っていなかったのかもしれない。細い袋の中でなにかの拍子に砕けてしまったものを、ざーっと口の中に流し込んで食べるのも、それはそれでお楽しみだった。

 いくらおいしいとはいえ「よくある『シガレット』」が、長崎で「ほかには代え難い『南蛮おるごおる』」になったのは、パッケージの存在が大きかったことだろう。いまは紙製だが、かつては薄い木の板が貼り合わされたもので、すぐ捨てる気には到底なれなかった。小物や写真を入れたり、裁縫箱にしたり、どの家にもひとつはあったという感じだ。

(検索したら、なんと木箱の復刻版が!でも売り切れ…)

 その「表紙」には、外国人のおじさんが描かれている。しゃくれたみたいな顔の、ヒゲが生えた黒い服のおじさんが座っている。おじさんの横には、タンクみたいな、ランプみたいな、なんだかよくわからない物がいくつか並んでいる。「南蛮おるごおる」という文字も、いつもなら「オルゴール」というものを「おるごおる」と書いてあって、古めかしいような、カタカナよりも外国っぽいような、不思議な存在感だ。箱のふたは一辺が止めてあり、まさに「おるごおる」みたいに開く。それがぜんぶセットで「南蛮おるごおる」のときめきだったのだ。

 ずいぶん大きくなってから、「南蛮おるごおるのおじさん」を、箱以外のところで見た。田川憲さんの版画だった。それが箱の元の絵だという。おじさんは、箱に描いてあるよりももっとたくさんのごちゃごちゃしたものに囲まれて座っていた。タイトルは「西洋骨董店にて」。なるほど、たくさんの物があるわけだ。

 それからまたずいぶん経って、田川さんの画集『東山手十二番館』を見ていたら、その絵について「中世紀を売る店」という一文があった。


 そのオークションの入口には、いつも太った黒人が腰を下ろしていた。アブーという船員上がりの老人であった。店内のサモワール、ギヤマン、クレイのパイプ、銅版、武具など、西洋から流れ着いたおびただしい骨董品は、南蛮時代のラセイイタ、ホルランシャ、アメンドスなどの香りにつながるものであった。だから今はもう、その人も品物も、そんな回顧は何もない。それらがなくなるのと一しょに居留地も亡びてしまったからである。


 「おじさん、ほんとにいた人なんだ」と驚いた。でも、絵に描かれているのはアブーさんだろうか。絵の中の人が「太った黒人」かどうか、ちょっと悩む。違ったとしても「おじさん」は、お店の人か、あるいは店と一体化していた常連客であり、実在の人物であろう。ランプかと思っていたのは「サモワール」というもので、湯沸かし器らしい。(「ラセイイタ」は、布のラシャかと思われるが、ホルランシャ、アメンドスは、検索してもわからなかった。)さらに、ほかのページをめくっていたら、こんな文章も見つけた。


 夏になると、長崎には南からの海軟風が吹いてくる。ああ南蛮の風だな、と私は思う。遠い大航海の昔、はるかなゴアを出た三檣帆船ナウは、積乱雲の南シナ海でこのモンスーンをとらえて北上、旧六、七月の侯、長崎の港に入った。そして九月、十月の北東季節風にのってふたたび南へと帰ってゆく。

 しかし中には悲運の船もあった。

 マドレ・デ・デウス号は、港外高鉾島沖の海底に今も三百五十年の夢をむさぼっている。そこは黒船曽根と呼ばれる泥の堆積で、魚が群遊していると漁師はいう。船でその上を通る時など、私は海底から葬礼のようなオルゴールの響きをきく。(「黒船曽根」)


 おじさんだけでなく「おるごおる」にも、ちゃんとモデルがあった。「マドレ・デ・デウス号」は、1610年、マカオで起こったトラブルから日本勢と銃撃戦になり、最後はみずから火薬庫に点火して大爆発ののちに沈没したというポルトガル船だ。それが眠る黒船曽根からオルゴールの音が聞こえたのは田川さんの感性によるものが大きかろうが、ともかく「南蛮おるごおる」は、漠然と華やかなりし南蛮渡来のオルゴールではなく、確たる「あの日あの時」に沈んだ船の積荷を想定したものだったのだ。そう思えば、その後の歴史をも予感させる音色が、私たちの耳にも聞こえてくる。


 長崎における南蛮は、秀吉の徹底的弾圧と破壊によって、表面的には全く姿を消したかのごとくである。はたして南蛮は死んだのであろうか。いや、長崎のどこかの甃には、南蛮船の忘れた積み残しがいまなお残っているはずだと、この風は私に教えてくれる。(同)


 鎖国と禁教の時代をくぐりぬけ、居留地もさびれゆくころ、実際に存在する物質として「南蛮船の忘れた積み残し」が骨董店に並ぶ可能性は大変に低いが、ここで語られていることは、もちろんそんなことではない。もの言わぬ「甃」の奥底にしみこんでいる、南蛮船からもたらされたものの気配についてのことだ。この文章から数十年が経ついま、「甃」さえも多くがアスファルトに塗り込められているが、それでもなお「積み残し」の気配は、注意深く歩きさえすればかすかに感じられるし、どれだけ薄まってもなくなってしまうことはない(と私は信じながらこの町で暮らしている)。

 「そうか、おじさんも、おるごおるも、ほんとだったんだ」と納得して、また何年かが経ち、こんどは別の人が、店とアブーについて書いているのをみつけた。長崎の洋館を数多く撮影してきた小林勝さんの写真集『長崎・明治洋館』より。


 酒場は入口が広く造られ、入口の前には石畳がベランダのように敷かれていた。四十番館の酒場の前の石畳には、いつも大きな籐椅子が二つ三つ置かれ、その一つにはずんぐりしたインド人のアブーが、深々と腰を下ろしてパイプをくゆらせていた。彼は船員上がりで、腕っ節も強そうであったから、用心棒を兼ねた客引きとしてここに雇われていたのであった。客が来ればにこにこと迎え入れ、時には前の道路で遊ぶ子供たちに「コンチワ」と片言の日本語で話し掛け愛嬌を振りまいていた。根はお人好しで喧嘩などはしなかったから、大浦界隈の人気者であった。(「大浦川畔の酒場」)


 「アブーさん!またもやコンチワ!でも『酒場』?骨董屋さんだったのでは?」と思ったら、いつもアブーさんが座っていた建物は、その前には居留地にやってくる外国人のための酒場だったという。「船員上がり」のアブーも、はじめは客のうちのひとりだったのだろうか。どうして長崎にとどまっていたのだろう。第一次大戦が始まって、国へ帰る外国人が増えたころにも、彼は帰らなかった。そしてアブーがいた「酒部屋」の松が枝町40番地は、「居留地は外人の出入りの激しいところであったので、それに伴う不用品を競売にかけるオークション業が盛ん」だったこともあり、昭和初期に「いわゆる西洋骨董品屋であり道具屋」となった。アブーが骨董屋の店番をしていたのは、酒場の用心棒の「スライド登板」だったのだ。第二次世界大戦が始まると、長らく親しんできたはずの外国人は「敵国人」「鬼畜」となり、次々と長崎を離れた。アブーもいなくなった。そして戦争が終わった。


 アブーは米軍の通訳として戦後ふたたび長崎に来た。長崎が忘れられなかったらしい。だがそれも束の間、はるばる迎えに来た老いた姉とともに故国インドに帰った。帰国の日アブーはグラバー邸から下る坂の途中で立ち止まり、青葉の間に見え隠れする大浦天主堂の尖塔を、いつまでも眺めていたという。(同)


 酒場のちオークションの店だった「松が枝町四十番館」は、その後も残っていた。「戦前までは大北電信会社のデンマーク人リスター氏が住み、戦後は三菱の社倉(売店)になっていた。」小林さんの写真集には「旧三菱社倉」として昭和39年の姿が収められているが、もうずいぶん傷んでいる。明治の中ごろに造られた四十番館が解体されたのは、昭和41年の8月。そのあと、小林さんはこの建物を田川さんの版画に発見する。昭和33年に作られた「オークションの店」だが、それは、田川さんが描いた長崎の多くがそうであるように、リアルタイムのものではない、失われた風景である。


 そこにはオークション品の店となったこの建物の入口に、口ひげの人物が立っていた。店の主人ではなくこれはアブー氏ではないか、私には彼がひどくなつかしく思えた。長崎にはこれと同一構造の洋館はほかになかったから、一見してその建物とわかった。また版画の腰板の部分にNo.40と田川氏は彫っていた。まぎれもなく松が枝町四十番館である。(同)


 田川さんはつまり、アブーさんを2枚描いていたのだ。「西洋骨董店にて」は店の内側から、「オークションの店」は外側から。そう思って見くらべると、入口の上の装飾がおなじだ。そして「オークションの店」に立つ男は、たしかに「太った黒人」ぽい。二枚の絵の男は、ヒゲとスーツはよく似ているけれど、体型は違う。でも「西洋骨董店」の男も、インド人と言われればそういう気もするし、なにか心労があって痩せたアブーさんのビフォー・アフターか?と思いはめぐる。いずれにせよ、ここがオークションの店だったころ、田川さんはすぐ近くに暮らしていた。アブーさんには幾度となく「コンチワ」と声をかけられていたのではないか。

 アブーさんのことを、個人的に覚えている人はもうほとんどいないだろう。でも、長崎の人は、長崎を愛したアブーさん(あるいはその店の主人?)を「箱のおじさん」として知っていて、写真を入れたり裁縫箱にしたりしていた。「南蛮船の忘れた積み残し」というのは、たとえるならば、そういうことなのだろう。黒船曽根から、かすかにかすかに聞こえてくる音色のような、町の思い出だ。