長崎は今日から雨だった

 ちっとも梅雨に入らなかったが、ついに雨が続きそう。
 「長崎は今日も雨だった」がヒットした年だったか翌年だったか、長崎は雨が少なくて、長崎砂漠とさえ呼ばれたらしい。雨の長崎を期待した観光客が不満げだったとかなかったとか。

 目に見える雨は降っていなくても、長崎はなんとなく、いつもしっとりしている。気候によるものなのか、ひょっとしたら、この町で流された涙が、中途半端に蒸発したまま、まじりこんでいるのか。「長崎は今日も雨だった」は、こまやかに長崎の風情を歌いこんでいるわけでも、男女の機微をすくいとっているものでもない、歌詞としてはおおざっぱにも思える歌だけれど、大切な人の「不在感」においては、突出している。とにかくいなくて、とにかく探すんだけど、ほんとはいないこともわかってる、みたいな。歌ができたのは、終戦と原爆から四半世紀、長崎が造船やら炭鉱やらの景気に沸いていたころだ。みんな戦後をがむしゃらに生きてきて、ふとした拍子に、失った人のことをしみじみと思い出せるようになったころだったのか。この歌は、そのおおざっぱさゆえに、だれの心にもあてはまったのかもしれない。そんなときは、ギラギラした陽射しではなく、夜の雨につつまれていたいものだし、目の前は晴れていても、涙の雨は降っている。

 その数年後に「精霊流し」がヒットしたときは、しめやかで物悲しい精霊流しを期待した観光客が、詐欺だと怒ったとか怒らなかったとか。でも、こればかりは、ほんとうに大切な人の船を出してみればわかる。隣の人と会話もできないような爆竹の轟音は、亡き人と自分だけを、こちらもまた、優しく包んでくれるものなのだ。
 長崎では、降っていても、泣いていてもいい。晴天モデルの日々や人生に疲れたら、長崎でボーっとしていたらいいと思う。