やわらかなほっぺたを

 市民会館での「少女たちの長崎地図」講座は最終回。

 全六回だったので「長崎の生活史」講座からだいぶ絞った内容でありつつ、ついつい新しいものを投入したくなる癖も出てしまった。

 先週時間切れとなった「くんち」に始まり、今日の本題は戦争と原爆、そして現在へ。『戦禍の長崎「フ左日記」』や美輪明宏さんの『紫の履歴書』、さらに受講生の方からリクエストのあった作家・林京子さんの文章を紹介しながら、戦時下の暮らしや原爆のこと、その後の少女たちの人生などについてお話しする。終わってみたら、10分ほど過ぎてしまっていた。最後にご紹介したのは『ペコロスの母に会いに行く』の「背中の児」。おばあちゃんが、いつも背負っている目には見えない「児」は、原爆の時に亡くなった娘で、それが認知症によって、おばあちゃんのもとへリアルな存在として「帰って」くるというもの。一緒に布団にくるまった小さな女の子の顔は、一瞬、焼けただれて死んだ時の顔になるのだけど、そのあとすぐに、ふわふわのほっぺたでニッコリして眠っている。

 「母に会いに行く」シリーズは、だいたいが実話をもとにしたものだが、実際の岡野さんや母のみつえさんに起こったことではないことも、時々織りまぜてある。「背中の児」は、そういう意味では「フィクション」でありつつ、長崎ではさほどめずらしくない「実話」だ。美輪さんの本には、頭が吹き飛ばされた赤ちゃんを背負う半狂乱のお母さんの話が出てくるし、たとえ背負っていなくても、子どもをなくした親はいくらでもいた。学徒動員された林京子さんは、爆心地から1.5キロの大橋の兵器工場で被爆して助かっているが、おなじところで働いていた多くの同級生が亡くなっている。生き残った人たちは、下痢や脱毛などの重い放射能障害に苦しんだ。終戦後の秋に行われた学校での追悼式の様子が小説『祭りの場』に記されている。


「生き残りの生徒が椅子に坐る。生徒の半数が坊主頭である。それがセーラー服を着て坐る。華やかな黒髪であるべき少女たちの頭は、まるで尼さまだ。尼さまの頭はまだいい。生気がある。少女たちの頭はしなびてなえている。生徒が中央に坐り両側に教師と、被爆死した生徒の父親と母親が坐る。

 読経が始まった。こぶしを強くにぎった校長が瞑目して身じろぎもしない。モンペ姿の母親が耐えられず、泣き伏した。父親は一様に天井を睨んでいる。

 生き残った生徒は、生き残ったのが申し訳ない。母親の嗚咽は私たちの身を刺した。」


 別の作品には、死んだ娘の友だちに、毎日弁当を持ってきては食べさせて「娘と似ている」と泣く母親が出てくる。生きている者、死なれた者、どちらもたまらない。そして、子どもたちは、生きていたからこそ、死んでしまった。つややかな髪、おいしそうに食べる口元は、かつてたしかに存在していて、母親たちはそれをこよなく愛おしんでいた。

 「背中の児」を描いた岡野さんは『続・ペコロスの母に会いに行く』のあとがきで「認知症になった母の頭の中を、僕は、父との楽しい思い出で満たしてあげたい。そのために、僕は漫画を描く。だから希望しか描かない、描きたくない。」という。「背中の児」は、ほかの作品によく出てくる「父」の話ではないし、実際のみつえさんの話でもないけれど、まぎれもなく「長崎のどこかのお母さん」の話ではある。モンペ姿で嗚咽していた「お母さん」たちの中には、何十年か後に娘たちが「帰ってきた」人もいるのではないだろうか。そのときの娘たちはきっと、全身にガラス片が刺さったり、ひどい火傷を負った顔ではなく、ふんわりといい匂いの、やわらかなほっぺたをしていたのではないか。もちろん、ガラス片が刺さろうが、焼けただれていようが、親にとって子どもは子どもだ。その姿だったとしても、現れてくれるだけでうれしい。けれど、最後はその姿になったことがわかっているからこそ、記憶の中のいちばん上には、いい匂いのやわらかなほっぺたを置いておきたい。死化粧ともちょっと似ているのかもしれない。その下の傷と悲しみがなくなってしまうことはなくても、少しでもヒリヒリズキズキが鎮まるように。それを受け入れられるように。

 岡野さんが「希望しか描きたくない」というのも、ただ面白おかしくほのぼのテイストのものをというのではなく、パンドラの匣とおなじで、現実にはあらゆることがあったからこそのものだ。実際の作品にも、いくつもの苦しく悲しい場面やストーリーが出て来るけれど、その行き着いた先には、どんなひどいことからも奪われることのない思い出や幸せな瞬間、あふれる愛おしさや命のぬくもりが描かれている。いま思うこと、これから先に思うことが、過去を書き換えることがある。それを希望と呼ぶのなら、岡野さんの作品には希望があふれているし、私がいろんな人の文章や古い写真なんかを切り貼りしてつなげていることも、きっと、そうでありたい。