いつもそのへんにある原爆

 昨日の講座では原爆の話をしたのだが、終わったあとに何人かの方から「原爆の本はあまり読んだことがない」と言われた。私もそうだ。長崎の過去を振り返る上で必要だから読むけれど、そうでなかったら積極的には読んでいないと思う。それは「興味がない」とか「怖い」というようなことだけでなく、長崎に暮らしていると「よく聞く話」だから「間に合ってる」あるいは「腹いっぱい」と思ってしまう面があるのだ。子どもたちは毎年8月9日が登校日で、原爆資料館の見学や被爆者の講話も一度や二度ではない。夏になればローカルの新聞やニュースでは、平和運動や原爆のことが毎日のように特集される。黙っていても流れ込んでくるので、自分から読んだり聞いたりすることは、よほど関心のある人でない限り、あまりない。

 小さいころから原爆の写真を見たり話を聞いたりしているので、原爆というものは「あるもんだ」という感覚がどこかに生まれているのだろう。東日本大震災の津波に襲われた町の映像を見たとき、まず、原爆の焼け野が原を思い出し、「大変だ」「ひどい」と感じる前に「町にはいちどくらい、こんなこともあるもんだからなぁ…」と思ってしまった。江戸時代の長崎の歳時記を現代語訳していたときなど、「八月」のところで、ほんの一瞬「原爆」の項を探した。江戸時代だから原爆なんてあるわけないが、「長崎の生活の一年」をたどる意識のもとでは、八月と原爆は、わかちがたいものになっているのだ。けれど、なんとなくあるもの、流れ込んでくるものと、意識的に読んだり聞いたりすることはやはり違う。子どものころに聞いていたはずの話、見たことのある写真も、年を取った上で自分の経験を重ね合わせれば、その印象は、より強く深くなる。昨日のブログに書いた話も、私自身に娘がいるから引きつけられた部分があると思う。

 どれほどめずらしい食材も、それが普通に存在する土地では「それがなにか?」という扱いをされることがあるが、長崎における原爆も、一般の人のレベルではそれに近いのではないか。(広島はどうなんだろう。広島と長崎は、いろいろ違うらしい。もっと意識的であるような気もする…)

 ただ、いつもそのへんにいっぱいある、と思っているものも、ちょっとしたきっかけであっけなく、あるいはいつのまにか失われることがある。原爆については、さまざまな記録が残されているから、そういう意味で「失われる」ことはないだろうが、いまを生きる人との「結び目」は、すでに急速に失われているのかもしれない。私が子どものころは、クラスの大半の子のじいちゃんばあちゃん、あるいは親が被爆者、そうでなくとも戦争の体験者だったけれど、いまの子どもたちはちがう。大人たちも、子どものころに話を聞いたまま、夏の風物詩みたいに感じている。

 長崎の原爆の本来の投下目標地点は、眼鏡橋のふたつ下流の常磐橋付近だった。それを知ったときには「ふーん」と思っただけだったが、その後、そこを中心にして500m、1000m……と同心円を書いてみた。だいたい2kmが全壊全焼エリアである。すると、眼鏡橋も唐寺も出島の洋館もグラバー邸も大浦天主堂も、ぜんぶが全壊全焼だ。子どものころは、眼鏡橋のひとつ上の橋の通りの古い家に住んでいたが、その家なんて跡形もなく吹き飛ばされていただろう。自分の記憶の中の風景のなにもかもが存在していなかったのだ、と、力が抜けた。そして原爆のことを、「いつもある」と感じつつ、なんにもわかってなかったかもしれないと思った。自分の身に寄せながら、あるいは単なる「過去のできごと」ではなく、それをいまの暮らしとつなげるように読んだり聞いたりしなおすことで、戦争や原爆の新しい伝えかたというか、生かす扉が開かれていくのではないかという気がする。