すわのもり、メメントモリ

 市民会館での公民館講座「少女たちの長崎地図」講座、5回目。

 年中行事を…と思いつつ、ぜんぶやっていたら到底終わらないので、六月一日のくんち「小屋入り」の話から、奇しくもその日がお誕生日の佐多稲子さんのこと、伊勢の宮の鮎の祭り、夏越の祓い、ぎおんさん、清水(きよみず)さん、お盆のお供え、そして新旧の精霊流しのことなど。

 佐多稲子さんの『樹影』の碑は、おすわさん(諏訪神社)の公園のところにある。(写真の真ん中下くらい)そこは佐多さんにとって、少女時代にいちばんの遊び場だったところだ。まだ寒い春、一面に落ちている椿の花を、葉っぱをしごいて強い糸にした裏白で縫いつらねて歩いた。そのころの佐多さんは、自分がその後長崎を離れ、作家となり、いま遊んでいる場所に文学碑が置かれるとは思いもしなかったろうが、八十を越えた佐多さんの目には、除幕式のあいだ、しばし幼き日の自分の姿が見えていたようだ。『私の長崎地図』や長崎にまつわるエッセイでは、そういう、時間や存在のゆらめきが感じられる。おすわさんの近くの家で佐多さんが生まれたとき、母は十六、父は十九。まだ「表立った夫婦」ではないが若い両親が「私を手離しもせずに」故郷を追われるように移った先の長崎だった。「私はあの赤渋を塗った格子のある家の二階で、幼い母が一途なまなざしをして私の生ぶ声を聞いたときの表情を思い描くことができる。」佐多さんが幼い日の自分を思うとき、それはきっと、実際のその日に身を置くことだったのではないだろうか。

 「小さいころの自分が気付いていないだけで、じつは年をとった自分がすぐそばにいて見守ったり、声をかけたりしている」という情景は、ペコロス岡野さんの「母に会いに行く」シリーズにもたびたび登場するが、あんがい、ほんとうにそうなのかもしれない。一定方向に流れている時間は、流れてしまったが最後、金輪際流れっぱなしで帰って来ないのではなく、目には見えないけれど、大事なときには帰ったりすることができるのではないか。日々の暮らしの中では、絶望するしかないような、策が尽きてしまったかのようなことが起こりつつ、でも、なんとなく、根拠はないのになんとかなりそうな気がしたりすることがある。そんなとき、じつは、おばあさんになった自分がそばにいて「大丈夫だから」って、聞こえない声で言ってくれているのかもしれない。

 長崎は、せまい町に月日が積み重なっていて、ぎゅうぎゅうになっているので、ひょっとしたら発酵したみたいになっているんじゃないだろうか(そういえば、佐多さんが生まれたところと、岡野さんちはとっても近い)。だから時々、ぷしゅっとガスが抜けるように、昔のことがありありと姿を見せたり、濃縮されたような、ぐるぐるとかきまざったようなことが起こったりするのだろう。そこでは、老幼はもちろん、生死の境もあやうい。

 講座の後半は、精霊流しウォッチャーとして、船のあれこれや、精霊流しという弔いのシステムのすばらしさについて、ターボかかりつつお話しした。そして長崎が誇る「Mr.メメントモリ」越中哲也先生の存在のありがたさについて。毎年の中継録画における「来年は私が船に乗っとるかもしれんですよ」は、これもまたひとつ、長崎らしい「生死のゆらぎ」の噴出なのである。