小さな修理工場

◆少女たちの長崎地図 「買いもん」編 その3


 長崎の町にやってきていた行商人たち。朝から昼にかけては、食料品や日用品だったが、午後にはまた別の人たちがやってきた。大野良子さん『記憶にのこる明治の長崎』より。


 季節の行事のための物売や紙屑、地金など資源回収の人々、又さまざまの物乞は午後の登上人物であった。晴れた日の路傍には桶の輪(たが)の取替や、煙管の柄替(らおかえ)、下駄の歯入れ、雪駄の裏がえ、鍋釜の鋳かけやなど破損した日用品の小さな修理工場が、呼び止められた家の前で随時に展開されるのであった。それは子供達にとって木や竹や皮革や鉄など、それぞれの素材の持つ性質や扱い方、日用品の製造工程などを知ることのできる興味ある路傍の教室であった。


 「季節の行事のための物売」は、たとえばお盆用品。永島正一さん『続長崎ものしり手帳』から。


 盆灯籠売りは、「ヤゲンドーロ、ドーロヤイ」、ヤゲンは薬研である。お盆の精進物、仏前への供物ペーシンにゴ(マ?)ドーフ、ペーシンは唐音片食(ペンシイ)で、ペーシンやゴマドーフは精進料理のつきもの。ペーシンはねぶか、あげどーふ、木くらげ、しいたけ、かまぼこ、鶏のたたきを酒醤油で味をつけウドン粉の皮につつみむしたもの。


 「薬研」は『長崎事典 風俗文化編』によれば、子どもの初盆に使われたものであるという。「ペーシン」もおなくじ『長崎事典』に、お盆の十五日のお供えとして出てくる。「平たくいえば、ちょっとぜいたくな『ぎょうざ』である。これに酒をそえ、夕方、萩の枝で作った箸をそえて皿の形にこしらえた鏡心太(かがみところてん)が出る。お精霊さまは、この心太を鏡代りに顔をなおし、姿かたちを改めて西方浄土へ帰り支度をされるのである。」とのこと。ペーシンについてわざわざ「編笠形にして蒸したもの」とあるのは、旅路にかぶる編み笠をイメージしているのであろうか。しかし、ペーシン、おいしそうだ。長崎の盆料理として復活したらいいかもしれない。

 さまざまな廃品回収や修理の人々がやってくる。


 「ジガネー」は古物不要品買い。ジガネーは地金であろうか。

 「ジョーマイ、ジョーマイナオシ」は、いかけや。

 「キセルサオガイ」は、キセルの竿換え。「ラオーガエー」といってくるのもいた。ラオはラオスである。ラオス産の竹、キセルのラオ。キセルはカンボジア語である。

 あめ売りは「カヨーカヨー」。これは換えようの意味。古傘古下駄その外不用品と交換したものである。

 雪駄直しは「オカエー」、このオとカを略して、単に「エー、エー」といったものである。

 灰を買って歩く者がいた、「ヒャーハタマットランナー」。


 「らおがえ」がラオスのラオだったり、雪駄直しが略しすぎていたり、彼らのフレ声もおもしろい。「ヒャーハタマットランナー」は「灰はたまっていませんか?」である。


 化学工業の発達していなかった時代に、工業製品の原料の物資はどんなにか貴重なものであったろう。廃品の回収はきめ細かく行われていた。直径六〇センチもある浅い籠を天秤棒の両方に吊して「地金、地金」と触れ歩くのは大方年をとった男の人で地金やさんと呼んでいた。水の漏れるようになった銅や真鍮の金たらい、火箸の片方、底に穴のあいた鉄瓶、鍋釜、錫の茶托のよぢれた物等金属の廃品すべて、錆びた古釘でも買ってゆくのであった。(『記憶にのこる明治の長崎』)


 金属以外のものは、また別に集めにくる人がいた。


 紙屑を集める屑やさんは径五〇センチ深さ一メートルくらいの籠を一つ持って来て金属は扱わないで主に紙くず、ボロ布、硝子の破片も買っていった。女はみな毛髪が長かったので、髪を結うときに抜ける毛もつかむ程に溜まるとそれも喜んで持っていった。髷を結うのに必要なかもじの材料になるのであった。トイレ用の紙も手漉きの物で、今から思えば勿体ないような和紙の端切らずが使用されていた頃で、手紙を書く巻紙、学校でのお習字の手習草紙、作文用の罫紙もみな和紙で、毛筆が主であったから、使い古しのもみくちゃの紙でも家庭の屑籠ごと明けて持っていった、二銭か三銭であった。洋紙は屑やさんは喜ばないでおいていった。(同)


 昭和の生活の記録である『戦禍の長崎「フ左日記」』には、中国人の修理屋さんが現れる。


 壊れた陶器類を、つぎ合わせるのを商売にしている支那人が居る。「ワレタモノナウォーシ」と変な抑揚をつけて触れ回って歩くので、子供等の間に、その声帯模写が流行するくらいの名物である。


 子どもたちは、フレ声にも喜んだだろうが、「路傍の教室」で割れ物をなおす手つきにも見入ったことだろう。

 歴史的に中国と深い関係にあった長崎では、その物産も、売る人々も暮らしの風景にあった。大野さんの鮮やかな記憶。


 あちゃさんはその呼び方からも親しいものであった。大かたは上下色の異なった唐人服で長い弁髪を垂らして、お椀のような黒い帽子をかぶっていた。長い弁髪を時には鉢巻きのように額に巻きつけていた。浅い円筒形の帽子の頂に赤い房が付いているのは正装の時であったのだろうか。

 それは行商人というのではなくて、みな大浦の手前の新地という定められた居住地にいて、定まったお得意さんの家々に出入りしていたようである。


 貴重な薬や滑らかな布、美術工芸品の数々が、「あちゃさん」によって運ばれてきた。長崎くんちの世話役たちが紋付の下に履く「唐人パッチ」の生地は、本来彼らが供給していたのだ。

 

 のちに東京に移った大野さんの家には「あちゃさんから買ったものがいつまでも残っていた」が、いらなくなったものだけが集められていた時代は、やがて終わる。「紐のように長く伸ばすこともできる柔らかい純金の色も鮮やかな」「母がいつも指にはめていた蒲鉾型の二つ揃いの金の指輪」は、第二次大戦に入ると供出しなくてはならなくなった。

 割れ物屋さんの日記が書かれたのは、昭和12年7月15日。日中戦争が始まろうとしていた時だ。「あちゃさん」と親しんできたはずの長崎といえど、国の「敵」となった彼らを守ることはできなかった。家々をまわって来ていた割れ物屋さんや新地の商人たちは、その後どうなっただろうか。戦争で生まれた大きなひびを、なおすことはできただろうか。