豆腐売りの来ない朝

◆少女たちの長崎地図 「買いもん」編 その1

 明治後期から大正、昭和にかけての長崎の暮らしのようすを、明治37年生まれの作家・佐多稲子さんん、明治33年生まれの詩人・大野良子さんらの記憶と記録からたどるこころみ。まずは「買いもん(買いもの)」の風景から見ていきたい。ものを売ったり買ったりというのは、町に暮らすものにとっては、生きる上で欠かすことのできないことだし、どんなものがどんなふうに売り買いされていたかには、町や人のありかたがよくあらわれている。

 ネットでの売り買いなんて想像もつかないころ、「買いもん」は店で買うことのほかに、行商人から手に入れることも多かった。毎日の食べものや日用品はもちろん、不要品を買い取ったり、なにか物を修理したりというような「あきない」も、どこからかやってくる人によって行われていた。彼らには、それぞれやってくる時間帯があったようだ。大野良子さんの『記憶にのこる明治の長崎』より。


 家の前の石畳の道を毎日通ってゆく行商人は多かった。朝一番早いのは「くきくき」と触れる漬物屋、同じく「金山寺、らっきょう、奈良漬けに辛子漬」、そして次は伊勢町の川端で今朝出来立てのもやし売り、これは皆市内に住む男の人であったろう。


 長崎の朝は、漬物売りの声で明けたようだ。「くきくき」は、明治45年生まれの永島正一さんによる「長崎のフレ声」(『続長崎ものしり手帳』)の中では「クーキッ」と紹介されている。大根や蕪の茎の部分まで一緒に漬け込んだ「くき漬け」だろうか。それならば、ひとくちに漬物売りと言っても、さっぱりした浅漬け系と、味が濃い「金山寺」や奈良漬けなどは別の売手が扱っていたのだろう。好みの味はあの人だけど、でもたまには別の人も試してみたりして。もやしは、江戸時代からの長崎名物でもある。いまでこそ安さがうれしい食材だが、豆をあたためて作るもやしは、手間と経費のかかる贅沢品だった。いまも伊勢町の川端には、もやし屋さんがある。

 次に来るのは、花や野菜を売る人たち。


 神仏に供える榊や花を満載した長柄の浅い籠をおうこ(天秤棒)で両方にかついだ女の花売り、大根人参、唐人菜(白菜)、オランダ芋(馬鈴薯)、南京芋(里芋)、琉球芋(さつまいも)などの野菜を売る人が最も多くて、それは浦上やその近くの人であった。そして九時頃になると、牛や馬の背に薪や炭俵を負わせて来る。これは野菜よりも、もっと遠い所から来る人で皆男であった。

 よく晴れた朝の陽光をあびて、市内の日常生活の物資運搬の人で路上は活気にみちていた。時には湯気の立つ馬糞も落ちて、それは又それで後から拾い集めてゆく者もあった。皆暗い中にその在所を出て来るのだということであったが、薪や炭などは大束、大俵で、牛馬の背にある数は少なく、買い手さえつけば一軒の家で一度に積荷はなくなって、直に帰られるので売手の人は喜んでいた。


 往来がまるごと移動マーケットというか、町ぜんたいが、売り物が刻々と変わる市場になっているかのような光景。佐多さんは『私の長崎地図』で、朝やってくる魚屋さんのことを思い出す。


 魚の籠をかついだおばさんが毎朝売りにくる。

 「おかッつァま、このくじらは生ででん食べられますとヨ」

 と言って、庖丁のさきでまっ赤な肉をそいで自分の口へ入れてみせる。

 「くじらば、生で食べられるもんネ」

 と、祖母は顔をしかめて、その時の都合が付けば鯛を買って、その鯛の尻っ尾を台所の壁に貼っておく。その鯛の尻っ尾がたくさん台所の壁に貼ってあるほど自慢なのだということなども話す。

 「長崎もんは、食い倒れ、着倒れ、というてネ」

 と自然そう言うのは、我からその気性を知っているのであろうし、その長崎の気性をまんざら非難ばかりもしていないのであるらしかった。


 佐多さんはとても若いご両親から生まれ、ほぼ、おばあさんから育てられている。そのおばあさんは、長崎奉行所の地役人の娘として生まれた人だ。唐人さん仕込みの月琴を弾くことができて、うまいもの好き、着物好き、プライド高くて見栄っ張り。長崎人らしい長崎人である。佐多さんは12歳で長崎を離れるが、この会話での「ッ」「つ」「ァ」「ヨ」は、古い長崎弁のニュアンスを完璧に表現していると思う。私の講座や講演では、こういう部分は、自分の祖母や曾祖母が話しているつもりで読む。いまの日常の会話では、もうここまでの長崎弁やイントネーションは出てこない。

 大野さんは、長崎の魚のおいしさをいつまでも忘れられなかった。鯛や伊勢海老が普段の食卓に乗る生活。製氷や輸送の技術が発達していなかったゆえに、どんなにおいしいものが獲れても、長崎で消費するしかなかった面があったのだろうと察している。


 生産地から直接売りにくる物には、時津の人が大村湾のかきやあこや貝、あさりは有明海と聞いていたから日見峠を越えて運ばれてきたのであろうか。こうした行商はすべて女の人であった。うにの塩辛も桶の中のを帆立貝の匙で扱い、柄のついた五勺桝でどんぶりに計り入れられたなど夢のような昔語になる。そのうにを入れた桶のふたは若布の広いのを二三枚用いてあった。


 おそろしくおいしそうである。わかめで蓋をした桶いっぱいのうにを、帆立貝の匙ですくってどんぶりに入れるなんて、どこか犯罪の匂いさえする。

 朝の「買いもん」は、だいたいこんなところだ。そして行商人たちはやみくもに訪れていたわけではなく、町の人々の「ニーズ」に応じていた。大野さんはこう分析する。


 朝の物売りの中に他国と異なるのは豆腐売りのないことであろう。昔から商業で栄えたこの町では夜がおそくて、店の戸の閉るのは夜も十一時近く、凡て片づいてみなが床につくのは十二時頃であったので、朝のご飯は前日の夕飯の時残しておいた物を(お櫃を暖めるものがあって、そんなに冷たいご飯でもなかった)茶づけにするのが旧い家の習慣であった。朝の行商の最初が漬物やの類いであったのはそのためである。


 長崎の商家の朝が遅いのは、江戸時代の記録にもある。元旦からして、大晦日の清算業務のために、日が高く昇るまで眠りについていた。豆腐屋じたいはあったようだが、朝はとにかく、前の日のご飯を漬物でサラサラッと流し込んで済ませていたのだろう。

 朝の物売りの喧噪がひととおり落ち着くと、こんどは弁当集めのおばさんが回ってくる。商売の家も多いが、明治の終わりともなれば、町には三菱に勤める人が多かった。その弁当を集めて船に乗せて、造船所まで運ぶサービスがあったのだ。佐多さんの父親も三菱勤めだった。


 弁当屋のおばさんは一軒毎に弁当を集めて、それを大籠の中に並べてかついでゆく。すると、かたかたと弁当箱の音がする。大波止からはこの大籠が、屋根のない大きな団平船にぎっしりと詰まって、何艘も向う岸へ渡ってゆくのだ。このようなのんきな習慣はいつごろまで続いていただろう。


 豆腐はなし、漬物あれこれ。花に野菜に、とれたての魚。そして弁当箱が、かたかたかた。せわしないけれど、とてつもなくのんびりした、明治の長崎の朝だ。