少女たちの長崎地図

 4月から6月まで、月に二回、中央公民館で講座を担当している。タイトルは「少女たちの長崎地図 〜明治から昭和の暮らしの風景」。明治37年の長崎に生まれた作家の佐多稲子さんの『私の長崎地図』と、明治33年生まれの詩人・大野良子さんの『記憶にのこる明治の長崎』、昭和11年生まれの宮本フ左さんのお父さん、松尾哲男さんの「育児日記」である『戦禍の長崎「フ左日記」』などをもとに、明治から第二次大戦前後にかけての長崎の日常のようすをたどっている。

 長崎に限らず、歴史……昔のことは、どうしても有名な人の活躍やら事件やらがほとんどで、さらに男性が登場する割合が多いので「ヒストリーは『his story』なのよ」っていうようなことになる。だからといって、私自身はそれに対する「女性の歴史」をどうこうしたいわけではなくて、「フツーの人のいつもの日々はどうだったんだろう」ということが気になる。たとえば年表に載っているような、たいそう名のあるおじさんがいたとしても、彼の人生のほとんどは日常生活であるし、そこでなにを食べたり、どんなお祭りの音を聞いたりしていたのかに心ひかれる。そして「フツー」や「いつも」や「日常生活」は、その時々ではそう思われているけれど、ほんの数年、数十年の時が過ぎるだけで、あっけなく変わっていくし、人々の意識もまた、それと同期している。明治から昭和までの、ほんの100年たらずのことを見ているだけでも、それがイヤというほどわかる。目や耳に飛び込んでくる事件やできごとは、むしろいつの時代も似たようなことが起こっていて、日々のささやかな風景のほうがよほど知らぬ間に変わっているのだ。佐多さんは「しぼんだゴムまりを小学校の近くの楽器屋さんに持っていくと、空気を入れてパンパンにしてくれる」と書いている。それがフ左ちゃんのゴムまりになると、ゴムまり自体が粗悪品しかなくて、いくら空気を入れても遊べなくなる。

(写真は、昭和40年代後半のゴムまり)

 少女たちは、生まれ育つ場所を選べない。親や時代をまるまる受け入れながら、彼女たちなりの世界の中で生きている。佐多さんと大野さんは、少女時代を長崎で過ごしたのち、東京で暮らした。なので、お二人が書く長崎は「冷凍保存」されたものであり、それぞれが作家や詩人となったのちに「解凍」したものだ。よっつ違いの「少女たち」の文章を読んでいると、おなじものを見ておなじような感想を抱いている時もあれば、ちょっとした感覚や環境の違いが見える時もある。いずれにしても当時の古写真などを並べて読んでいくと、いつの日かたしかに漂っていた長崎の空気の匂いが、ふとよぎるような気持ちになる。それはきっと、いかめしい顔をしたおじさんたちの鼻もくすぐっていた匂いだし、そのおじさんたちも、ほんの数十年前までは少年だった。

 「少年たち」の記憶もあわせて読んでいる。長崎の風景を多く描いた版画家の田川憲さんは明治39年生まれ。版画もさることながら、詩人を志したこともあったという文章はすばらしく、戦前まで長崎におられたので、時代の移り変わりも記されている。郷土史家の永島正一さんは明治45年生まれ。名家なので、所々に贅沢な暮らしぶりが見える。贅沢と言えば、昭和10年生まれの「少年」である美輪明宏さんの『紫の履歴書』。レストランで外食したり、お母さんがロシア人の毛皮屋さんでリスのコートを注文したりと、戦争までの長崎の華やかさが偲ばれる。『紫の履歴書』は、希有なアーティストの数奇な半生記であるけれど、上京までの部分は、当時の長崎を知る上での貴重な資料だ。

 少女たち、少年たちが暮らしていた長崎は、いまはもうほとんどない。けれど、いま目の前にある長崎は、それがあった上に存在するものだし、形あるものが失われても、きっとどこかにその名残りや気配はひそんでいる。こうして、すでに少女や少年でなくなった、あるいはこの世にすらいない彼らの記録を生き生きと読めることこそがその証明であるし、そうすることで彼らの時間を取り込むことは、この町での暮らしや旅に、大きな恵みをもたらしてくれるだろう。